樗の日々

28歳のわたしを綴る。

台風

 

少し前のコメディ映画を観た後、部屋の電気を消した。

 

網戸にした窓を覆うレースカーテンは、街の光を受けて奇妙な光沢を帯び、強い風に膨らんではうねった。何かに似ている、と考えて、それがエコー写真だと気づいた。白黒にざらざらとした映像に、何故かそれはとても似ていた。赤ん坊の胎動。何かが意思とは無関係に蠢いている様。ぬらぬらとしたそれは、強い風が通り過ぎると、怯えるようにふるふると震えた。

 

時折、ユーカリの香りが強く発光して私の鼻先を通り過ぎた。昨日届き、カーテンレールに吊るしたユーカリユーカリがこんなにも香ることを、私は今まで知らなかった。

 

 

少しして、ベランダに出た。

 

風が、ぴゅうぴゅうと吹いていた。時折ごごごっと地鳴りのような音を立てて通り過ぎ、ぶんっと何かを振り回すような耳鳴りに、ああ、向かいの高層マンションに風が今ぶつかった、と分かった。

 

電線がゆらゆらと揺れていた。高層マンションの窓の電気が、いくつか点いて、いくつか消えた。その向こうのアパートの壁に、街路樹の影が大きくのしかかっていた。ぐらりぐらりと玄関先の明かりを舐める。

 

 

ベランダの目の前に線路が伸びている。深夜まで絶え間なく行き来する電車が昼過ぎから止まり、とても静かだ。台風の音がよく聞こえる。定期的に、チャイムがなり、女性の声が何かを言う。お客様、という単語と、ホーム、という単語、その先の言葉は聞き取れない。きっと駅のホームに流れる自動アナウンスだろう。女性の声が注意を促す先、今は誰もいない。誰もいないホームを、その声はただ優しく諭し続ける。

 

線路の向こうの道路を、スーツ姿の男性が歩いていった。風に前かがみになりながら、何かから顔をかばうようにして。彼の向かいからタクシーがやってきた。タクシーの曲がりざま、男性が手を挙げた。タクシーがUターンして止まった、なのに男性は止まらずに歩き去っていった。男性は何に手を挙げたのだろう。男性とタクシーの運転手の間に、この強風の中でしか理解し得ない、秘密のやりとりが交わされたのだろうか。

 

 

いちばん星が見えたら部屋に入ろう、と決めた。

風だけが荒れ狂い、空は晴れ始めていた。いちばん星を探していたら、いろいろなものが舞い上がり、落ちていった。枯葉。ビニール袋。空き缶。小鳥に見えた何か。あれが小鳥でなければいい。

 

 

切りたての髪がぱらぱらと踊った。今時のスタイルにしてくれたらしい。美容室を出た時は何かが新しくなった気がしたのに、早めのシャワーを浴び終わり乱雑に乾かしたらもう何が新しくなったのか分からなくなってしまった。素敵な鋏捌きで、自由がないと嘆いていたあの美容師さんは、無事に家に帰れただろうか。

 

いちばん星の前に、雲の向こうの月を見つけた。あの雲がいなくなったら、月が見える。いちばん星よりも先に、月を見つけてしまうかもしれない。それもまたいいだろう。月が明るい夜は、何かが救われるような気がする。

そうやって月を待っていたら、いちばん星を見つけてしまった。人生思った通りにはいかないものだ。

 

 

そんなこんなで、今、明かりをつけた部屋の中でこれを書いている。

 

ひとりきりの台風の夜。

そろそろ風はおさまったようだ。