消費と創造
0から物事を創り出すことがとてつもなく苦手だ。昔から、ずっと。
例えば高校の授業で、大学の講義で、会社の研修で、本題に入る前のお遊びとして、曖昧なお題を出されアイディア性を試されるタイプの演習が大嫌いだった(正しくは、現在進行形で大嫌いだ)。
思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消える私のセンスの産物は、残念ながらいつもどこかで見たことのある紛い物で、白紙の紙を埋めるためだけにひねり出す結論は結局無難でありきたり。箸にも棒にもかからない。良くも悪くも誰の記憶にも残らない。
ただ、幸い、外から与えられる小さな刺激から物事を瞬間的にこねくり回して膨らませ変質させることは昔から得意だった。講義でも、研修でも、結局誰かの案を糸口に、他の誰も思いつかなかった案に変質させることで凌いできた。その才能には長けている自信がある。ベースがあればそれなりに見事な花を咲かせることができる。花びらの色を誰も見たことのないものに変えるくらいは。
今の会社に採用されたのも、結局はこの才能のおかげだと思う。他の会社の座談会で他の学生から出た案をこねくり回し膨らませて二次面接の質問ぜめを耐え凌ぎ、逆に三次面接の質問をし続けなければならない時間では二次面接で訊かれたことを味付けしひっくり返して面接官にぶつけ続けた。その荒技のせいで、あるいはおかげで、ここにいるのだ、私は、多分。
話は少し変わるが、物を書くことが好きだ。
絵は下手だが美しい絵を思い浮かべることが好きだ。
写真を撮ることが好きだ。
美しいものを、少なくとも私が美しいと思うものを、生み出すことが好きだ。
けれど私のこれはやはり純粋な創造とは少し別のところにある。今までの人生で見てきたもの、出会った光景、言葉、感情、音楽、色、そういったものが蓄積され混ざり合い堆肥のように沈黙して、そこから私は創造する。
そうして生み出したものを、時に見る人からとても新鮮だと驚かれる。私の中では同じ土から同じ根から生えて伸びた草花が、組み替え方次第で新しい創造になっていく。そしてそれはまた私に新たな養分を与える。生み出すことは回り回ってエネルギーになる。生命が循環するのときっと全く同じ原理で。
消費する主体であるべき自分が、消費されている。
小袋成彬さんのアルバムの中の一曲、あるいは一話に、こんなセリフがあった。
消費されている。消費され続けている。それを最近強く感じる。消費されすぎて、少々私が疲弊している。
会社の歯車となり、それなりに責任ある立場を任されて、生産しているはずなのに、それはほとんど消費されていることと同等だ。顔のない他の誰かが残したものを、顔のない私が拾い上げて続けていく。同時に、誰でも食べられる量産物をろくな選択もせずに消費し続ける。これは作業だ。創造とは程遠い。消費され消費し続ける人生は、私を絶えず削り取る。枯渇。柔らかな部分が枯れていく。
生み出さねばならない。
というとまるで強迫観念のようだけれど、もっと穏やかに、もっと切実に、最近感じる。
生み出さねばならない。
そうしなければ、私はゆっくり死んでいく。
0から創り出すことがひどく苦手だ、けれど降り積もった私という人間から生み出すことはとても好きだ。好きだという言葉では足りないくらい、それは私を生かしている。そのことを最近とても強く感じる。
ものを書こう。写真を撮ろう。想像しよう。創造しよう。
黙って食い尽くされてなどやるものか。
*
全然関係ないけれど、先ほど会社から帰宅して、一瞬先にエントランスをくぐった同じマンションらしき女の人が、私がもたもたと郵便受けを確認している間に一度エントランスの扉が閉まったにも関わらず、エレベーターの扉を開けて私を待っていてくれた。
その豊かさに感動しました。
世界はまだまだ優しいね。