樗の日々

28歳のわたしを綴る。

ぶつかる

 

スーパーで女性とぶつかった。野菜売り場を見ている女性を、自分もまた野菜売り場を見ながらすれ違いざまに避けようとして、避けきれず、かごが彼女の手に当たった。反射的に、すみません、と声が出た。女性はひどく不快そうに私を睨み上げ、そのまま通り過ぎていった。

 

今日は有給休暇を取っていた。

ずっと観たかった演劇を観にいって、台風一過の晴れ空の下、皆がまだ働いているのだという事実の下のなんとも言えない優越感に浸りながら、スーパーに買い物に行った。いつもは閉店間際に駆け込むために仕事帰りのサラリーマンやOLさんを見ることが多かったが、今日は夕食の買い出しにきているとわかる風貌の人々が大半を占めていた。

 

人の動き方は、いくつかに分類できると思う。物理的な体の動き方だ。普段の生活の中で刷り込まれた歩き方、仕草、選ぶルート、そういったものが無意識に体の中に組み込んでいく動き方。

今日はそれをひどく意識した。通路がとても歩きづらかったのだ。

朝8時に家を出て電車に乗り職場に向かい、パソコンと向かい合い、あるいは顧客と口論にギリギリ届かない議論をし、夜9時過ぎに、あるいは10時過ぎに、あるいは0時近くに職場を出て、また電車に乗って自宅へ帰る、それを繰り返す私のような人間にプログラムされた動き方と、たぶん私よりもっとずっと早く起き、家族のためにご飯を作り、家事をして、日中も子供の相手をしあるいは家事をしあるいは仕事に行って、少なくとも夕方5時にはスーパーで夕食の野菜を吟味する生活スタイルの女性にプログラムされた動き方と。

誰かが誰かの邪魔をしようとしたわけではない。けれど私はとても歩きづらかった。

 

そんな中で、1人の女性とぶつかった。

女性はひどく不快そうに私を睨み上げ、そのまま通り過ぎていった。

 

私が悪いのか?

自問して、けれど、そもそも私に気づかず避けようともしなかった彼女に落ち度はないのか?とすぐにその問いに対する反論が返ってきた。

お互いに悪いのではないか?お互い謝ればよかったのでは?

 

でも、と思った。

でも、では、あの場で謝ることが「常識」なのか?「誰の」「常識」か?示し合わせたように見ず知らずに人同士がお互いが謝るなんて、そこにどんな共通認識が働くことを前提としているのか?誰かがぶつかったら誰だって不快だ。それを即座に押し隠し笑って頭をさげるなんて、どうしてそれを相手に求められる?

 

それに、と思った。

それに、では、普段の私はどうだ?仕事でストレスが溜まり、エレベーターで幅をとる人にすら舌打ちしたくなるくらいにささくれだっているような普段の私は?今日が休暇ではなかったら、私はすみません、と言えたのか?睨み上げるまではしなくとも、はっきりと眉を顰めて何も言わずに通り過ぎはしなかったか?

 

 

女性に睨み上げられてからのもやもやは、残念なことに、せっかくの私の休日の後半のかなりの範囲を覆ってしまった。夕焼けが綺麗だった。けれどもやもやに覆われた私の心は、それほど動かされなかった。本当に、残念なことだ。

 

 

でもそれは、私がたぶん覚えていない範囲で同じようにやってしまっている、しかめ面やため息や、そういったもので台無しにしてしまったある名も知らぬ人の1日の代償なのかもしれなかった。

 

そう思うと、そのもやもやは、少しだけ形を変えて、小さな痛みを私に与えた。